ヨーニ・リンガ・ヨーニ

HelloTaro2004-11-21


 モグラは、太陽のリズムに左右されず、昼夜関係なく4時間活動すると4時間眠る。自分の経験でも、仕事も目的もなく暗い部屋でしばらく生活すると、起きたり眠ったりするサイクルはモグラっぽくなる。先日、テレビのワイドショーにニートという外来語*1の具体例として出演していたお兄さんは、カーテンを閉め切った部屋で、やはり昼夜関係なく3〜4時間起きると3〜4時間眠りながら生息していた。それはさておき、太陽に影響されない地球本来の生物体内リズムは24時間ではなく8時間だと思うと不思議な気持ちになる。我々は、太陽のリズムに合わせて生きているのだが、本当は1日を3日間にわけて使ったほうが自然なのかもしれない。1日3食なのもそのせいか? ちなみにとある中世イギリス博物学の本*2は「モグラの心臓を食べると予言能力が備わる」伝承を紹介している。本当かな。今度機会があったら捕まえて食べてみようっと。
 かれこれ10年ほど前の11月、信州松本の友人宅に遊びに行った帰り道、なんの予備知識もなく長野県茅野市諏訪大社上社前宮を訪問した。由緒ある神社にもかかわらず、参道のすぐ脇まで建て売り住居が建ち並び、子供が庭のバスケットゴールで遊んでいた。のどかな場所やね、なんて思いつつ、心地よい晩秋の日差しを浴びて有名な御柱などがある神社の境内の歩道をテクテク歩いていくと、この土地にはかつて神人の住居であったことを記す古い看板があった*3。ふーんと思いながらロクに読みもせずに前に進もうとした瞬間、風景が突然ゆがんで、あるビジョンが頭を占拠し動けなくなった。闇にぼんやりと浮かび上がる青白い雪景色、フォーカスはどんどん積もった雪の中から地中に吸い込まれる。湿った土には生き物のように幾重にも血管が張りめぐらされ、ところどころ漏れた血液が雪や氷を薄く紅色に染めていた。それらの血管の中心にはマユのような地下シェルターがあり、とぐろを巻く大きなヘビの中で子供が眠っている・・・。どうやら自分は、土地が持つ古い儀式の記憶回路をキャッチしてしまったようだ。割れたスピーカーで「しぼりたて新鮮ですよ!!」と歌い上げる牛乳の移動販売の軽トラックにクラクションを鳴らされるまで、おもいっきり路上でフリーズしていた。
 昨日、本屋でユリイカ`04年11月号「特集*藤森照信」をジャケット買いする*4。「藤森照信 野蛮ギャルド建築」(1998)以降の新作も全てガイドしているが、なんといっても表紙の最新作、茅野市にあるご実家の敷地に建てた茶室「高過庵(たかすぎあん)」にはマイった。なんじゃこれ? まさに自然の樹木を立てて神のよりしろとする御柱の先端に、ちょこんと小屋をのっけたような無意識過剰な野蛮建築? 特集は充実しているが、特に去年「精霊の王」*5で、自分自身の血肉と運命の問題として諏訪信仰・最古層の精神文化ネットワークを紹介した中沢新一氏との高過庵での対談が素晴らしい。藤森照信氏のことばは、どれも固有名詞の「ことだま」がビンビンしている。多少長いが引用する。

 中沢 スタンディング・ストーンが出てくる時は、霊が超越してくるんですが、縄文中期の場合は、霊が「ここ」にいるんですよね。
 藤森 その問題は複雑で、もっと大きく言うと、天上の世界には太陽が象徴である超越的神様がいて、地上の世界には出産や生死を祭る地母神がいる。旧石器時代にはスタンディング・ストーンは発見されていない。つまり旧石器時代は地母信仰で超越的なものがなく、生と死だけの生命的な、中沢流に言うと循環的世界。太陽の絶対性を人間が意識したのはいつかと言えば、やはり農耕が始まってからだと思う。狩猟時代の地母信仰だと、水とか緑とかの動物の表面的現象はわかるけれども、そのエネルギーの由って来るところまでは関心が向かない。ところが、農耕をやると例えばいつ芽が出るか、実るか、今年は豊作か、凶作か、こういうことは全部太陽の動きと関係している、ということがわかるようになる。実は目の前に見えている動植物の循環的生命現象は太陽が支配しているのだということを理解するはずなんです。すると太陽信仰が生まれます。太陽を認識するということは大変なことですよね。あれは核爆発だということを今の我々は知っていますが、太陽は直視できないし触ることももちろんできないし、物体なのかもよくわからない。だから僕は人間の抽象的思考というものは、太陽とはなんであるかを考えるところから始まったと思うんです。新石器時代になって農耕によって太陽の超越性を知って、太陽が地母神の上に乗った二重の信仰が生まれてくる。それまではそれこそアースダイバーで、地へ意識は潜っていたのが、農耕を始めてから超越的、天上的なものを知って、そこに王様の霊を届けたいということになったんじゃないか。普通の人は下で十分だったと思う。だけど王様は上に行きたい、超越したいということになって、それでスタンディング・ストーンを作って発射台にしたんじゃないかと思うんです。農耕以前の旧石器時代からの地母信仰の上に太陽信仰が乗って重なってしまうから、問題がものすごく複雑になる。だけどそうやって二層に分けて考えれば、わかることも大きいのではないかと思っています。(ユリイカ`04年11月号「特集*藤森照信」柱は魂の発射台だった!より)

 すごい。おもしろい。スタンディング・ストーン、ミシャクジ、石棒、御柱などの古代人の「柱への信仰」を、農耕民族と旧石器時代的な狩猟民族の両者は違う階層で共有していることを喝破した上で、両者の象徴・シンボル理解への糸口と解決方法を同時に見いだしている。つまり、それら聖なる柱の深く地中に刺さった部分はアースダイバーする男根として大地の地母神を潤し、空に屹立する柱は太陽に向けて王様の精液を発射する。柱は地母信仰と太陽信仰をつなぐ、二重の意味を持っているのだという理解。もう、これは農耕民族ヤマトの中で、古代から続く狩猟民族のシンボル的な存在、肉食する悪党・ダークヒーローとして、神道の中に組み込まれた諏訪人ならではの思考方法だろう。その流れの中でインド・ヒンドゥー教でのリンガ(男根)とヨーニ(女性器)のエピソードを持ち出した中沢氏が、高過庵を藤森氏のリンガに見立て、「我々は(その男根の)亀頭部にいてお茶を飲んでいる」というと、軽く「その内部は子宮の中みたいです(笑)」と返す藤森氏。そうか、この不思議な建物は分離した地母神の子宮として空中浮遊しているのだ。例えば地中にうごめく大地のモグラ(土竜)たちの精霊も、この子宮空間を通じて外に飛び出せば、知らぬ間にドラゴン(竜)に転じて天空に発射されるだろう。近々、藤森氏の建築設計処女作の神長官守矢資料館と高過庵、ついでに独自の縄文解釈が話題の富士見町井戸尻考古館*6は訪問したいなぁと計画中。非公開という高過庵にもいつか登ってみたい。とりあえず、願いがかなうまで思い念じ続けよう。

 *1 NEET=Not in Employment, Education or Trainingの略って、「ひきこもり」で十分では? 
 *2 「四足獣の歴史」E.Topsellより。もちろんこのネタは荒俣宏先生の受け売りです。
 *3 諏訪の信仰について興味あるかたは、ご自分でお調べください。というか、正確に説明する資格も力量も自分にはなかとです。とりあえず下社春宮の万治(まんじ)の石仏はライブで鑑賞すると、すごいシビレます。諏訪出身のI大先生にお話すると「あれは岡本太郎よりも先に俺が発見したんだ」と力説していました。
 *4 数日前に紹介した「ラジオ 沼」のかえるさんこと細馬宏通氏の「絵はがきの時代」も連載中。というかごめんなさい「ユリイカ」新刊書店で初めて買いました。
 *5 「精霊の王」中沢新一 ISBN:4062118505 ご自分でも「最近新刊ラッシュでファンの方に申し訳ない」とおっしゃっていた中沢新一先生ですが、これは別格&おすすめ。無限の闇の中からふと「翁」が出現する瞬間の驚き&トキメキに大興奮。
 *6 そういえば数年前に工作社のWeb Siteにて、伝説の雑誌「どるめん」元編集長、現在、井戸尻考古館に勤務されている田中基氏の本の出版計画がゲラ段階まで進行していると読んだのですが、どうなのでしょう。楽しみにしています。