HYDEPARK MUSIC FESTIVAL 2005

HelloTaro2005-09-01

「狭山は当時のぼくにとって“夢のような場所”だった。思えば非現実的な生活をしていたわけですけれど、当時ぼくたちは20代前半でしたから、自由な場所を求めていたんだと思うんです。アメリカの音楽を聴いて育ってきて、アメリカでヒッピー文化が台頭してきて、ぼくたちの世代はそれを見習ったというか、大きな影響を受けた。そのころ、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』っていうアルバムが出て、それにはとても影響されましたね。ぼくの家もピンク色で、ちょっと似ていたこともあったし(笑)。
狭山は当時、日本で唯一音楽的な場所だったんじゃないかなって思います。東京に住んでいたら出来なかったかもしれないっていう音楽が、あのときここで出来たんじゃないかな、と思いますね」
細野晴臣「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル2005」記者発表でのコメントより

SAYAMAが1960年代末期から1970年代初頭にかけて、国道16号沿いにあった古い米軍ハウスにミュージシャンやアーティストなどが住み着いた、一つの文化発信村であったことはあまり知られていない。細野晴臣がファーストソロアルバム「HOSONO HOUSE」をSAYAMAで自宅録音し、奥村靫正が所属していた伝説的なデザインファクトリーであるWORKSHOP MU!もSAYAMAで誕生している。
自分にとっても、SAYAMAのHYDEPARK、、、狭山の稲荷山公園は高校時代の通学路であり、思い出の地でもある。
が、1980年代にはヒッピーカルチャーは一掃され、なにも残っていなかった。
たしか高校の文化祭で出展した8mmフィルムの映画らしきもの、、、手にカメラをくくりつけながら茶畑のある崖をジャンプするとか、目隠しした美少女の髪の毛を切るとか、電車の中でゴザを広げてお茶会をするとか、魚形の張りぼてとイヌに扮した男が池の中で戦うとか、、、そんなふざけた映画をたまたま観てくれた、隣接する入間市の喫茶店のママと仲良くなり、そのろくでもないフィルムを川島雄三「幕末太陽伝」と一緒に上映するような、今考えるとかなり幸福な待遇だったイベントに呼ばれた折(そうそう、ギャラはカレーライス2人前だった)、ママの弟が今回出演している、某老舗有名バンドの事務所社長だというようなお話を聞いたのが、唯一、土地に残された間接的な「ロック文化」の残り火に触れたような体験だったが、、、、それだけだった。
今週末、西武池袋線、埼玉県狭山市稲荷山公園で開催されるHYDEPARK MUSIC FESTIVAL 2005。鈴木慶一&博文兄弟、武川雅寛Moonriders組、細野晴臣 with 鈴木惣一朗などのセットが行われる9/4(日)は、行こうと思っていたけど微妙に難しいかも。でもがんばろうオレ。ファイト!!
http://www.hmf-sayama.jp/toppage.html