飼育

HelloTaro2006-04-13

ウサギの好みは知っている。
今朝、明治公園の脇道を自転車で走りながら、道路際のちょっとした地面に、緑色に輝く春の野の草をみて「これはウサギにはたまらないゴチソウの山だな」と思いながら、小学4・5年生だった時分を、柄にもなく想起した。
やつらの大好物は、たとえば今の季節の若いタンポポの葉や、ハコベや、オオイヌノフグリなどの若葉。それらがあれば、ニンジンの根にも葉にも目もくれない。そういう意味ではピーターラビットの絵本を代表とする「赤い根菜に夢中になっている」ステレオタイプな図版は、一種の幻想かもしれない。
ある休日、ペットショップでみかけた若いウサギを、幼稚園児だった妹がねだると、父親は「うーん」と考えた後、つがいで購入した。その後、僕をオンボロのワゴンに乗せて、近くの材木問屋と工務店に行き、釘などの材料を集めると、庭の中心に生えたアンズの木の周りに、穴をあけ、コールタールを塗った杭を打ち、大きな川石をかまして固定し、周囲に金網を張って彼らの飼育場所にした。
バニーガールが性と多情の象徴であるように、ウサギは地面に穴をほって巣をつくるり、その中でどんどん繁殖する。やたらめったら増えていく。そのことが、子供心にとにかく楽しかった。目覚める前の子供の目には、性と増殖は快楽ではなく、くすぐったいような、ゆかいな、豊壌の感覚である。そして、増え続けるウサギ一家のために、毎朝、近所の農道の脇道で、古いスーパーの買い物カゴいっぱいに、季節のウサギ好きがする草を、両親と兄弟で集めるのが日課となった。
ある日、妹が一匹の子ウサギに首輪とヒモをつけて、原っぱを散歩した。彼女は近所の子供達にかこまれ、お気に入りの子ウサギを渡さないために走って逃げ、気がつくと、ヒモの先の子ウサギは、目を真っ赤にして、冷たく動かなくなっていた。
やがて、庭の地下は、ウサギの目に見えない通路ではりめぐされ、毎日、脱走経路を埋めても石で防いでも、逃げ出してしまう彼らを追いかけることが日課になる。が、そんな日々は、突然、終わった。小動物が作った地下通路に進入したネコが、食べるためではなく、遊びのために、10匹以上に増えたウサギをすべて虐殺したのだ。
その翌日、たまたま庭にまよいこんだネコを餌で捕獲し、縄跳びで手足をしばって、幼児用のブランコの支柱をつかってブラさげて個人的な復讐をしたが、あまりに悲痛な声をあげ続けるのに耐えきれず、すぐに放した。ウサギの死体を根元に埋めたアンズの木は、翌年からそれ以前の倍の、甘い実をつけた後日談もあるが、別の話。
不意に、ヒトでありながら、他者であり動物である小動物の「嗜好」について熟知するということは、子供時代の経験として「そんなに悪くない」と振り返る。そして、そんな風に、全てうしなわれた「事物」を思うことによって、ばくぜんと幸福に思いを馳せる。自分の年少時代は、確かに幸せだった、と、いまだからこそ理解する。そして、大人として、そう小声で断言する「勇気(と恥じらい)」を保ちたい。その経験の、小さな、しかし、消し去ることの出来ない蓄積によって、自分も、またいつか、与えるものになりたい。
話は変わるが、小学校などで飼育されているウサギなどの小動物は、新聞の社会面や地方版などで小さく報道される以上に、無数に、いじめられたり、いたずらされたり、殺されたりしているのだろう。でも、そういうネガティブなことも含めて、小さな生命を飼育し、観察するのは、非常に楽しいし、意味があることだ。そして、ウサギを虐殺したネコも、モデルガンとナイフを持って小学校の小動物を虐殺するヒトも、ちゃんと殺した後の生き物を、補食したり、料理したり、毛皮をとって利用したりするならば、理解はしたくないが、どこかで許せると思う自分もいる。ま、これは自分の欠点の、キレイゴトな意見でもあるが。
朝つゆに輝くタンポポハコベをみながら、そんなことを思い出したり、考えたりした。