骨のある骨董

 あこがれながら、手をだせない世界の一つに「骨董」がある。小林秀雄や青山次郎、白州正子を筆頭に、骨董についての文章を読むのは好き。加藤陶九郎や北大路魯山人など、古いものにとりつかれ、憑依する工芸作家は別格として、美術・工芸作家の伝記や自慢話よりも、古いモノたちに関するエピソードの方が面白いことが多い。美術館に博物館、古い遺跡や寺社仏閣&各種聖域など、旅をすればできうる限り、その土地の、なるべく古いものを鑑賞しているが、さりとて骨董品を楽しむ余裕は無い。
 去年、中国福建省南部の古い貿易港の都市、廈門の対岸にあるコロンス島を訪れた際、遊び心で旧日本領事館側の洋館廃墟を探索。途中まで進むと、天井の梁がぎしぎしきしみ、今にも崩れ落ちそうな音を立ててホコリが降ってきた。慌てて逃げながら、足下に光る泥だらけのガラス瓶を二本拾って鞄に入れた。屋敷を出るとき、どことなく嫌な気配を感じたので、ポケットの一元コインをお賽銭代わりに建物の中に投げ、お払いしたのはご愛敬。ホテルの浴槽で何度も水をかえて、丁寧に汚水を流すと、泡の中から、心地よくゆがんだ青い気泡だらけの古いボトルが現れご満悦。さてさて、問題は、はたしてこれは正しい骨董趣味といえるか、ということ。言うまでもなく「それ以前」なのだが、芸術新潮に「ひとりよがりのものさし」を連載していた坂田和実氏や、西荻窪のギャラリー、ブリキ星さんのような新しい視野を持った専門家を意識しながら、横目で色目を持つにも、自分にとってその「古いボトル」は、廈門の太陽や古い洋館が建ち並ぶ風景を喚起するための個人的なツールであり、タダで拾ったおみやげであることが大事だったりするので、そこで完結してしまう。
 なんでこんな事を書いているかというと、なんとなく手にしたら、あっという間に読了した「亜細亜骨董仕入れ旅」佐藤法樹著がメッポウ面白かったから。命がけでパキスタン山岳地帯の絶壁を渡り、発掘されたばかりの泥付の仏舎利を二千ドルから千ドルに値切って買い付けた後、「無事持ち出せば二、三万ドル位にはなる」とクールに言い放つ、知的錬金術師のかっこよさ!! 自分だったら借金してでも手元に置いてしまうだろう。なんでもそうだけど、好きなことを商売にするのも一つの因果。その因果を突き抜け、物語に昇華した武勇談の数々。ちょっと酔いました。