おじいちゃんと僕

HelloTaro2004-11-27


 生きている人間は、直接、死者とは語ることが出来ない。しかしそれは「人々は死んだ人とコミュニケーションしない」ということではない。死者の遺影・遺骨・墓碑はもちろん、遺品や残された文章や手紙、仕事などの記録、親しい周囲の人々の証言、子孫に現れた遺伝的な特徴などを通じて、残された死者の感情や思いを受け、知ることは、葬儀中やその後の遺族や友人にとって、当たり前の行為であり感情だろう。イタコや巫女などのあの世についての専門家の助けを借りて、霊を呼びだす場合もある。しかし、自分が興味を持っているのは、もうひとつの方法というか、可能性について、である。
 本のタイトルを忘れてしまったが、とある女流作家の夫についての追悼エッセイに「彼が亡くなってから数日後、庭に孔雀が現れた」ことと、その孔雀がなにかの節目に消えてしまったことを、確実に夫の化身の出現として捕らえている表現があった。なぜ孔雀? 彼女は別のインタビューで、夫について「孔雀のような人」とノロケていた。中上健次の小説などでも、庭に咲く花や不意に出没するヘビなどが、あからさまに死者の霊魂として描写されていることがある。というか、日常的に日本語を話す人々にとって、仏教の輪廻転生にも通じるこのような連想や発想は、それほど突飛な話ではないだろう。死者は、庭の花や樹木や動物、風や自然現象の姿を借りて、霊魂となって生者になにかを伝える。それをキャッチした瞬間、世界は普段の日常生活と変わらない表情で、聖なるものが出没する場へと変貌する。
 個人的な体験で申し訳ないが、自分は祖父を亡くした半年後に、彼と再会する機会があった。僕のおじいちゃんはその時ネコの姿をしていた。
 雪が降る12月、仕事場から3kmほどの距離を歩いて家まで帰った深夜のこと。自宅そばの公園に祖父がいた。一目で直感的に、そのちょっと太めの三毛猫は僕のおじいちゃんだと、わかった。目が空腹を訴えていたので「ローソンでおでん買ってくる。すぐもどるからそこで待っていて」と言い残し、急いでコンビニで買い物をした。その時、自分自身「おじいちゃんとネコを混合するなんて、自分の頭はどうしたんだろう」と自問した。しかし公園に戻ると、元副総理の金丸信そっくりな、甘味と女性と快楽と旅行が大好きな、亡くなる10年以上前からゆっくりボケていった、僕のおじいちゃんがいた。じっと動かずに待っていたらしく、身体に積もった雪がいじらしかった。木製ベンチの雪をはらって、二人でおでんと魚肉ソーセージを食べてから、膝に乗せてだっこすると、おじいちゃんはグルグルとのどの奥をならして甘えてきた。いつまでもそうしていたかったが、しばらくすると自分自身の身体の芯が冷えて身震いが起きた。おじいちゃんの化身といえども、ネコを動物飼育禁止の共同住宅に連れて帰る訳にいかない。何度も別れを告げて、立ち上がった自分の足に、なごりおしそうに身体をこすりつけてくる小動物がとても愛おしい。帰り道、ふたたび我に返り「自分は発狂しつつあるのかな」と不安になったが、翌朝には忘れていた。後日、そのネコの姿を探したが二度と現れなかった。

画像:中国宋代の画家、李嵩「髑髏幻戲図」部分。