歌詞ではなく詩を。ミュージシャンから「詩人を奪還せよ!!」

HelloTaro2004-12-11


 今年出版された本の中で、いちばん印象的だったのは四方田犬彦氏の「ハイスクール1968」(以下一部敬称略で失礼します)。都市の少年の呼吸と心象風景を、まだマイナーで未成熟だった漫画文化、都市を徘徊する詩人達の息づかい、ロックやジャズの音楽が彩る個人史であり時代の目撃記録であり、カラー図版も多く資料本としても価値のある一冊。村上龍氏の「69」を、逆さにしてトレースしたような面白さ。
 今年の古書めっけもんは、某都内古書店街で寺山修司著・横尾忠則イラストレーション「書を捨てよ、町へ出よう」(1967)初版を1,000円で入手したこと。すぐ100m先の古書店で同じ本が7,500円、松浦弥太郎氏が店主のCowBooks青山店ガラスケースの中に15,000円で売られていた。ヤボな自慢失礼しました。まあ、こういうことは古本中毒の自分にとっても数年に一度の希有な出会い。寺山修司氏は某カード会社の会報誌に連載していた「不思議図書館」という、その名の通り不思議なお話を集めた博物学的な連載記事ではまり、「書を捨てよ、町へ出よう」など一連の角川文庫本でノックアウトされ、小・中・高と詩や俳句を暗唱してしまうほど愛読していたので感激。「時代は象の背中に乗ってやってくる」とかね。
 んで、「ハイスクール1968」のサブテクストとして「書を捨てよ、町へ出よう」のオリジナルを読んでいくと、当時の詩人というポジションがいま絶滅の危機に瀕しているのでは、ということに気づかされる。そう、確かにちょっと前までは詩人って、それなりのポジションがあったのでは?
 もともと耳で楽しむものであったはずの詩が、近代になり簡易な活字メディア、目で読む書物として発達し、翻訳と作文のエリートが日本近代文学の起源的な、クラッシックスタイルの詩人像の原型となっていった。それが今度は録音・再生技術の発達と簡易化、ハードの普及によって、ふたたびダイレクトに耳を楽しませる方法が発達。それら詩人の役割は一部の音楽エリートにより奪われたのではないか。具体的には、1960~70年代のフォークシンガーの時代、たとえば詩人だったレナード・コーエンボブ・ディランの影響を受けて音楽家になった頃をきっかけに、詩は、歌詞として音楽に奉仕するようになり、詩人の必須条件としてシンガーソングライティングの才能が必要になったのでは。それが今日のクラッシックスタイル詩人の不在、兼ねては絶滅の危機を招いているのでは? ん、なんか勝手な論理を作っている感じもあるなぁ。これって定説ですか? 正解だったらシャクティパット・プリーズ!!
 んで、好き嫌いは別に、自分の中ではアルチュール・ランボー中原中也が詩人の生き様の基準になっている。その評価軸から、現在、日本語を使う詩人らしい人って想像していくと、真っ先に七尾旅人の顔が浮かんだ。七尾先生やばいよな。好き。つーか、若手の詩人って、知りません。そういえば、ポエトリーリーディングってなんですか? 「ほとばしる副作用」で辛酸なめ子さんが朗読をチャレンジしているレポートは爆笑したけど。現在、気を吐いているクラッシックスタイルの詩人って、谷川俊太郎氏ぐらい? 音楽家の息子さんとの朗読コンサート行ったことある。ねじめ正一氏のロックバンド演奏付き詩の朗読ライブ観たのは、もう20年以上前の話かも? Asa-Chang&巡礼の「花」は現代詩だよな。world's end girlfriendの「dream's end come true」の七尾先生の狂ったつぶやきも詩だよな。これはラップですが、8mileでエミネムが通勤バスで汚い小さな紙にぼそぼそうなりながらライムをメモしている感じ、あれ、いいんだよな。詩人だよな。ああ、困ったな。
 でも、やっぱり、コトバをぼくとつに自分のリズムで音読していく、ごつごつとした感触は、きらいではないので、ぼそぼそと、以下のように宣言する。
 歌詞ではなく詩を。ミュージシャンから「詩人を奪還せよ!!」。
 つまり詩人は詩人であり、音楽的才能のエリートで無くても良いということを前提に、なにか模索することは可能だろうか? という素朴な問いかけを実践してみたい。ということで、この日記のプロフィール枠に、にわか「詩人」と追加してみました。というのが「ハイスクール1968」の感想。おすすめします。