Earth Diver

HelloTaro2005-09-25

ふと気配を感じると、ふるい遺跡だったり、お稲荷さんが祭られていたり。ここちよいのか、わるいのか? それすらも明快なコトバにすることができない土地がある。
例えば新宿中央公園の裏にある熊野神社や十二社周辺、あるいは渋谷の道玄坂裏のラブホテル街や風俗店の集まり、あるいは六本木から東京タワーを目指す途中の坂や、増上寺周辺の水子地蔵など。
この奇妙な感覚について、中沢新一「アースダイバー」は、目ウロコ&明快な回答を出してくれた。
アースダイバー
中沢氏の理論によれば、これらの不思議な感じがする空間は、ほとんどが縄文時代の海進期とよばれる期間に、海に面してつきだした「岬」のような地形だったり、川の流れに対して固い陸地がつきだしたような、高低差がある水辺と陸地の境界であった。そして、そのような場所の多くは、墓地として死者を葬ったり、聖地としてなにかを迎え入れたり、よりしろとなる石碑や岩や石や建造物が置かれたり、また性の営みを暗示するような、特別な特徴を持つという。
なるほど、この本の付録として付けられた東京のEarth Diving Mapを見ながら、自分の身体感覚で、神社やお寺、ほこらや遺跡の場所をトレースしていくと、自分の中で明快ではなかった上記のような違和感を持つ空間の「土地の持つ力」が、はっきり視覚的、体感的に浮かびあってくる。
まるで坂道の向こう側に、時空を超えた水の気配や土地の持つ流れを感じると、そこにはぽっかりと穴が浮かび上がり、中に入れば、しっとりと湿った、あの世でもこの世でも無い場所が広がっているような幻影につつまれる。幻の穴の奥にあるのは、金属鉱脈か宝石か、あるいは無法者が逃げ込む隠れ里か、過去の賢者の英知か、娼婦達のじっとりと湿った談笑のエロスと陶酔か?
宮崎駿監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」では、トンネルの向こう側に迷い込んだ千尋たち一家にとって、神々の世界は水に囲まれた断層・境界として表現され、またむき出しの欲望と浄化を喚起しまた歓喜する聖であり俗な湯治場として描かれていた。「アースダイバー」を片手に、千尋のようにトンネルの向こう側に歩み出した読者のこころの瞳にあやしくも照らされるのは、じぐじぐと湿った泥の中から生まれるはじまりの資本主義であり、石器時代の無意識をトレースしている現代人の姿であり、またはかなくもうつろい変貌していく都市の趨勢でもある。
この本の元となった記事が文芸誌やアート・ファッション雑誌、建築雑誌などではなく、男性向け週刊誌に政治家のスキャンダルや女性のヌード写真や風俗レポートと一緒に連載されていたことも、わすれてはならない重要なポイント。
「地下鉄の座席に座って、何喰わぬ顔で本を読んでいるようなふりをしながら、ぼくはほとんど性的な興奮にふるえている。自分の肉体の一部が、他の存在の一部に、じかに触れて周りからやさしく締め付けられているような感覚だ。そう、いまぼくは地下を走るチューブの中にいて、その周りでは地球の熱い血液が脈打っているのである。地下鉄は存在自体がエロティックだ。地上にいて、足下を地下鉄が走り抜けていくのを伝える振動を感じるたびに、ぼくには東京が性的な快感にふるえているように思える。道路脇の排気口から、ときどき熱い吐息がはき出される。その吐息は、路上を歩くたくさんのマリリン・モンローたちのスカートの奥に吹き込まれて、彼女たちの太股に地下の秘め事の余韻を伝えていく。東京はすばらしく性的な身体をしている」
なんて詩的な、そして妄想的な飛躍に満ちた文章であろう? ある意味、「週刊現代」という媒体がもたらしたストレス、強度による収穫。
たとえば岩波現代文庫に納められた「はじまりのレーニン」の基本テーマとなっていた「釣りの中に潜む、不可視の生命としての自然とそのデーモン的要素との対話」というモチーフは、「アースダイバー」では麻布の釣り堀でのヘラブナ釣りや、江戸時代の金魚養殖の話として、サービス精神に満ちた文章としてよみがえっており、なんとも幸せな変奏曲を味わう快感をもたらしてくれる。
この本を買ってから、たとえば古い地図を眺めたり、ずっと気になっていたお稲荷さんを訪問したり、小さなフィールドワークを繰り返したが。その顛末はここには記さない。ともかく、都市論と詩と空間をめぐるエロスに興味がある全ての人におすすめ出来る素晴らしい書物であると、はっきり断言したい。