OHとグラビア


 先日、たまたま新宿駅校内で開催していた古本市で1970年ごろの少年マガジンを10冊ほど購入。ついでに横尾忠則デザインの星飛雄馬(モノクロ)表紙号もヤフオクで入手。「あしたのジョー」や「巨人の星」、「アシュラ」などを連載していたマガジン全盛期だけあって勢いがある。
 そしてなんといっても、大伴昌司氏が担当していたグラビア記事はすごい。
 ついでに図書館で当時の大伴昌司氏の仕事をまとめた「少年マガジン カラー大図解−ヴィジュアルの魔術師大伴昌司の世界」と、伝記である竹内博著「OHの肖像−大伴昌司とその時代」、そして当時の少年マガジン編集長による「奇」の発想−みんな『少年マガジン』が教えてくれた」内田勝著、名義は円谷一著だが、実質的に大伴昌司氏の最後の著作といわれる「円谷英二 復刻版−日本映画界に残した遺産」を読了。
 そう、大伴氏の最も有名な仕事は、円谷プロの怪獣を断面図などで図解した、怪獣博士としての一面であった。

 平凡社=マガジンハウスの雑誌によるグラビアのレイアウト方法を決定つけたのが、天才デザイナー堀内誠一氏による、どちらかといえば美術・デザイン(大正モダニズムやデパートのPOPなどの手法を引き継いだ)よりのテクニックだとすると、OH=大伴&講談社少年マガジンの手法は、視覚的情報の合理性に特化した方法であり「一枚の絵は一万字にまさる」というキーワードによって語られる、まざにヴィジュアルによって圧倒的な情報量を一目で理解させる手法だった。1980年代に山崎浩一氏が大伴昌司グラビアのすごさについて「写真などを美しく見せるデザイン上の都合も、イメージの上に文字(キャプション)を配置することで、一見すると泥臭くとも、的確に最小限のスペースで情報を集約させたことにあった」という意味の発言をしていた記憶がある。そして、この違いが、結果的に後に平凡社「ポパイ」と講談社の「ホットドック・プレス(HDP)」の編集方針の違いになっていたことを、元少年マガジン編集長にてHDP創刊時の編集長だった内田勝氏の自伝で、明快に理解した。
 自分はどっちかっていうと、堀内誠一氏に影響を受けたクチだと思っていたのですが、小学生の頃に愛読した怪獣図鑑によって、無意識に大伴昌司テイストの洗脳を受けていたらしい。そしてこの時代のビジュアルの開拓者はスゴイよなぁと、とても素直に思うのでした。
 まだ生きていたらなにしていたのだろうか? 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%98%8C%E5%8F%B8
参考『大伴昌司の世界』展レポート:
http://www.stfan.com/photo/000065.html