浄土

HelloTaro2009-11-14

「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと、また、いそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやら ん」とまふしいれてさふらひしかば「親鸞もこの不審あり つるに、唯円房おなじこころにてありけり」。
「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ、往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこ ばざるは、煩悩の所為なり。しかるに、仏、かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の 悲願は、かくのごとし、われらがためなりけりとしられて、 いよいよ、たのもしくおぼゆるなり」。
「また、浄土へいそぎまひりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと、こころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養浄土はこひしからずさふらふこと、まことに、よくよく、煩悩の興盛 にさふらうにこそ。なごりおしくおもへども、裟婆の縁つき て、ちからなくしておはるときに、かの土へはまひるべきな り。いそぎまひりたきこころなきものを、ことにあはれみた まふなり。これにつけてこそ、いよいよ、大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ」。
「踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまひりたくさふ らはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなまし」と云々。
親鸞歎異抄」第九条より