豪雨の中に水があるように美術館まで

今朝は風と雨が強く、友人の結婚式に行く妻を車で美容室まで送ったあと、8時30分に予約した歯医者へ。最初の客となって、歯石の除去とブラッシングの指導を受ける。ゴシゴシ。その足で、鎌倉までドライブ。目的は鎌倉の近代美術館で今日から開催される内藤礼個展。こちらも入館したのが朝9時30分ぐらいで、ほぼ最初の客のグループに。いやはや、ただの40歳ぐらいのオッサンとなってしまったオイラには高尚な展示だった。もうすこし派手なインスタレーションもしくは回顧展的なドローイングなどの展示を期待してしまったからね。すくなくとも一般的なエンターテイメント性は薄い。

いや、逆だ。タイトルに即した、極めてエンターテイメント性の高い展示であった。つまり公共施設としての美術館という箱と美術家あるいは美術品という関係性における「ギャグ」もしくは「参加型のコント」という意味で。この「ギャグ」は、現代美術そのものが「美術」という制度との関係性を作品にしたデュシャンを始祖であり開祖であるという文脈を了解した上での、、、という極めて限定された意味におけるもので。

メインの展示で、自分は美術品にとっての「浄土」としての美術館。浄土に召された存在としての「美術品の気持ち」。もしくは美術品を浄土へ送り込むシステムとしての美術館。あるいはバックステージパスをもらった子供のような体験が出来たことは確かである。その(アート的な臨死状態?)の価値として「一般 700円(団体600円)20歳未満・学生 550円(団体450円)65歳以上:350円 高校生:100円」という価格、あるいは神奈川県民として払った税金の負担額相当がふさわしいのかどうなのか? 

今年の春に銀座のギャラリー小柳で見た内藤礼 「カラー・ビギニング」展は無料であったがゆえ(もちろん、交通費や時間の捻出などのコストはかかっているのだが)、そこまで作品自体の、、、ある意味空虚さへの、、、、言及をする気分にならなかったのだが。この入場料と、体験の価値の間にある、なにか得体の知れない空白な感じに対して、、、鑑賞者は言及したくなる欲望にかられてしまうのかもしれず。今回は、この入場料700円也のお布施の負担があってからこそ、偶然の水滴の輝きや風の気配にすら、なんらしらの価値を(元手を取ろうと)見いだそうとしてしまう。そのため結果的に、久しく使っていなかった感性のエッジを尖らすちいさな砥石としてこれらの作品と現象を「受け入れる」。
そう、これはなにかを「受け入れる」、、、、つまり宗教を肯定する状態に近い体験で。タイトルとなったバタイユではなく、むしろ親鸞歎異抄」における浄土についての弟子とのやりとりなどを思い出しながら帰路についたのだ。最終的に、自分に取ってこの展覧会は面白かったが、人にはあまりすすめないようにしようと思いました。まあ、パンフレットが完成して、この展覧会ははじめて完成するんだろうしね(いや「展示が終了して、パンフレットが残される事で、完成される」というほうが正確かもしれませんが)(そしてこれは決して悪い意味ではないけど)。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2009/naito/index.html