こころの青あざ

 先日、思い立ってすべての過去の出来事の最後に「〜がこころの傷」とつけて告白してみた。
 「1970年生まれが、こころの傷なんだ」「長男なのがこころの傷になった」「育ったのが東京近郊のニュータウンなのがこころの傷」など、思いつくままどんどん続けていく。
 「ガンプラファミコンも買ってもらえなかった」とか「ドリフと仮面ライダーひょうきん族のテレビ番組を観ることは親に禁止されていた」などのライトな告白から、童貞時代の幾多の失恋とウソ、若気の至りの失敗、停学処分、若ハゲなど、引っかかるものは全部改めてこころの傷とする。
 「兄弟ケンカで包丁を振り回す弟に命乞いした」「高校時代におねしょしました」「デート中に下痢でうんこちびってパンツ汚れたのがバレた」「初めてエッチした時、相手に病気をうつされた」などなど。シモネタが多いな。たいしたことないけど。
 こころの中で忘れたい過去という「弱点」は、それをかばう壁を、ひそかに育てる。植物の生長にも似て、ゆっくりと、いつの間にかその壁は大きくなる。自覚出来るほどに育った壁は、他人にとっては、もっと大きな不可視の障害となる。その弱点を自ら告白することで解放していく心地よさ。いったん吐き出してしまえば「笑い話」としておもしろおかしく他人に話すこともできる。そうなればそれらの過去は単なる「ネタ」となり、本当の自分の「こころ」を守るためのカモフラージュ、最大の防御壁として働く。
 ふーん、そうかもね。でも、本当は気にしているから、またこうして新しい防御壁を作っているだけでないのかい? 本当の自分の「こころ」って、なんなのさ? 実は国家と歴史の関係を持ち出すまでもなく、過去を告白するということは、それがたとえ全て事実であっても、己の過去を創造することであり、その自覚と覚悟の上で自分を受け入れ、なおかつ演じる事でもある。そう思いながら、なぜか割り切れない「俺」の感情が、たぶんこうして文章を書くことの動機となっている。不完全であることを笑いながら直視すること。自分を調律する一つの方法。