食の想像力

この、料理のたのしさとさびしさって、なんなんだろう。身体を作るベースを整える作業でありながら、食べてしまえばおしまい。
の、くりかえし。
これに耐えられなくなる主婦がいるということも、理解できる。
目の前のさまざなま食材は、さまざななプロセスを経てここにあるということへの想像力。そして、それらの食材によって料理された食事が、自分自身や家族の肉体と精神を構成する「素材」になるという、想像以上に動物的&ダイレクトな現実。ここに対して、目をそらし抽象的であろうとすると、たぶん虚無が訪れる余地が出来る。
問題は、アホのようだが、想像力と感謝の気持ちかも。
自分が喰っているものが、どういう由来をへてここにあるかを、想像してみる。
当たり前だが、全ての流通している野菜は、人の手によって栽培され出荷されたものであり、ほとんどの食用肉は、屠殺された家畜であることを意識する。その上で、感謝して食べる。調理されたものであれば、調理した人にたいしても感謝する。
そのイマジネーションのプロセスの中で「安すぎる」とか「危険かも」という思いが出てしまうものは、口にしなければ良い。食品に求める重要な要素は経済性かもしれないが、最重要ではないから(とかいいながら、自分は遺伝子組み換え技術とかには基本的に賛成していますから、残念)。
素材への想像力と、感謝の気持ちをもって食べ、調理すれば、自分が料理し人様に食べていただく時にも、どこか心の余裕が生まれるのでは。
なーんて、40度の高熱をへて頭がパーになってしまったなぁ。話は変わるが、今回、狂牛病騒動の中での米国牛肉輸入再開の再停止問題。これは、狂牛病対策に対する無能・対米追従を演じた日本政府の裏の裏をかいた逆転一本勝ちという説もある。もし本当にそうだとすれば、ちょっとうれしい。