1980

東京大学「80年代地下文化論」講義
 宮沢章夫氏が東大駒場キャンパスで行った講義議事録「80年代地下文化論」を読む。
 メインテーマである、原宿というか、明治通り沿いの千駄ヶ谷にあった日本初のクラブ、ピカテントロプス・エレクトスは、当時、宝島やビックリハウス、月刊小説王での中沢・細野対談などを熟読していたダサイタマの中学生であった自分の憧れの場所であったが、ようやく一人で夜の東京を移動することが可能になった高校時代には、すでに閉店。祭は終了していた。
 この著書の中で、宮沢章夫氏が、ピカテンについて、何度も繰り返して非常に敷居の高い、特権意識の強い場であったことを強調している。
 また同時に言及されている、セゾンカルチャーとよばれた西武文化の拠点、六本木WAVEなど、開店当時、本当にドキドキするほど敷居が高く、店員もおいそれと声をかけられないぐらい高慢だった。
 だって、宝島などから切り抜いた輸入盤のレコードレビューなど持って、おそるおそる店員さんに聞いても「ありません」とつっけんどんに言われれば、退散するより他はなかったから。しかし、当時、スーパーマーケットのような陳列だった渋谷や池袋のタワーレコードと比較すると、圧倒的に刺激的であった。開店当時から、店頭でビデオの試聴機が設置され、クラフトワークのヨーロッパ特急やウルトラボックスのプロモーションビデオなど無料で閲覧できたんだもの(よく壊れていたけど)。しかし自分はダサイタマ住民だったので、池袋や新宿からさらに地下鉄を乗り継いで行く六本木は遠く、本当に入り浸ったのは西武デパート12階にあった西武美術館(美術館としてはやたら天井が低かった)に隣接していたアールヴィヴァン。良くも悪くもハイブロウな現代美術の洗礼と洗脳を受けてしまった。 
 で、ピカテンやセゾンカルチャーの敷居の高さという話題に戻って。
 たしかに当時、たとえばあか抜けないことを意味したダサイ(だって埼玉の略)という言葉や、ネクラとネアカ(根暗と根明の意、タモリが広めたとされている)、またこの本の中では言及されていないが、○金○ビ(金持ちと貧乏の意)など、文化、インテリジェンスの中での特権性や差違が、非常に決定的に強調され、力を持っていた。
 そして、その特権性の自覚(自意識過剰な)と、一般人(という幻想)との温度差は、確かに80年代カルチャーの力の源流の一つであったのだ。
 それは、1990年代後半から2000年以降のネットカルチャーの普及による、マイナーな情報の所有が必ずしも特権でなくなって以降、またオタク文化など、逆に狭い範囲の文化的共通項の共有が容易になってからの文化をかえりみて、ある意味、理解しがたいものになりつつある。のかな? と、断言しておきたいところで、あえて言いよどんでみたり。
 結局、それらの構造は形を変化させながら、今日につながっていることだから。
 宮沢氏がこの講義の中で、何度も構造を提示し、反復し、よどんでいるのも、その関連性と、しかし1980年代に確かにあった、なんというか、熱気と輝きにたいする、正直な敬虔の念であったりもすると思う。
 埼京線の、新宿、渋谷、恵比寿へのが東京の文化を破壊した元凶であるという宮沢氏の指摘については、やはりそのフレームでの解釈時代が、1980年代地下文化特権者としてのフレームからの目線であると、とりあえず遅れてきたダサイタマ出身者として卑屈に真摯に受け止めておこうと思います。それも大事。